【プロローグ】
”あんたは1回言えばすぐできるようになる”
”手もかからんし、ホントにいい子や”
物心ついた頃から、私は母に
”大人しくて手のかからないいい子”
だと言われていました。
私の目に映る母はいつも忙しそうで、小さい頃に母に遊んでもらった記憶はありません。
父はというと、仕事から帰ってきたらいつも私を抱っこしてくれていました。
そして私は、父の膝の上からいつも忙しそうに動き回る母を眺めていました。
私の1歳のお誕生日の時の写真を見ると、幼い私がケーキを前に満足そうに座っていて、そんな私を優しいまなざしで見守っている父の姿が写っています。
ここまで書いてみるとこの頃はまだ、ごくごく一般的で平和な家庭だったように思えます。
だけどこの2年後に弟が産まれ、私が小学校に進学する頃からこの平和な家庭環境に歪みが生じ始めます。
そして、その歪みの影響を敏感に感じ取り続けた私の心は、成長すると共に徐々に蝕まれていったのです。
【1.人の目が気になり始めた小学校時代】
小学1年生の時。
母とママさんバレーボールから帰宅すると、父がものすごい剣幕で怒鳴ってきました。
”こんな時間までどこほっつき歩いとったんや!”
そこから目の前で父と母のケンカが始まり、逆上した父が母の頭にお皿を投げつけたのです。
お皿を投げつけられた母はその勢いで床に倒れこみ、声を上げて泣いています。
”俺をバカにしやがって!!”
父の怒りは収まらず、倒れこんでいる母に罵声を浴びせ続けていました。
私はどうすることもできずにドアの前に立ち尽くし、ただただ目の前の光景に目を向けていました。
そこから母は泣きながら叔母に電話で助けを求め、叔母に連れられて病院に運びこまれました。
この出来事について私が覚えているのはここまでで、父と母のこのケンカがこのあとどう収束したのかも覚えていません。
ですが、元々おとなしく普段から両親の顔色を見て過ごしていた私は、この頃からさらに2人の顔色を伺うようになっていったように記憶しています。
【写真】
小学3年生の時。
学校での人間関係に悩んでいた私は、どうしても話を聞いてもらいたくて、母に思い切って声をかけてみました。
”お母さん、あのね…”
すると途端に母が逆上。
”うるさい!あんたまで私を苦しめるんか!!”
ものすごい形相と剣幕で、母に怒鳴られたのです。
いつも忙しく余裕がなさそうだった母。
そんな母の顔色をいつも見ていた私にとって、母に声をかけることはとても勇気のいることでした。
だけど母を頼ったら怒鳴られてしまった。
この時、私の心の中に
”私は母を苦しめる存在で、そんな私は母を頼ってはいけないんだ”
という思いが広がっていきました。
さらにこの頃には、父の口調の粗さが私にも向けられるようにもなっていました。
ピアノを習いたいという想いを口にすると
”どうせお前は長続きせんやろ”
とバカにされるし、その後ピアノを辞めてしまった時には
”ほら俺の言うた通りになったやろうが!
お前みたいなのは何をしてもダメなんや”
と子供の私の未熟さを責め立ててくるのです。
学校でも、やってもいないのに
”あいちゃんに睨まれた”と言いふらされたり、
強引な友達の誘いを断れないことに悩んでいた私の心は、どんどん縮こまっていきました。
”何でかは分からんけど何かが怖い”
”みんなみたいに思ったことを口にすることができん”
私の心の中のこんな戸惑いは、高学年になればなるほど大きくなっていきました。
そして、父と母をはじめとする、まわりの人たちのちょっとした言動に敏感に反応している
自分にもこの頃から気付き始めるのです。
”責められるのが怖い”
”人の注目を集めるのが怖い”
”でも役立たずやと思われんように、目立たないように頑張らんと…”
戸惑いが大きくなればなるほど、こんな想いもジワジワと膨らんでいきました。
ただその一方で、思春期を迎える頃には両親への反発心も抱くようになっていました。
”何でいつもぎゃーぎゃー喚き散らされないけんのや”
こんな納得のいかない気持ちが心の中でどんどん大きくなっていき、
そして少しずつですが、家の中でその反発心を表現するようにもなっていきました。
”お父さんとお母さんムカつくな”
反抗期を迎えただけだとは思いますが、私はどうしてもこの反発心という
イライラを抑えられなくなっていました。
そしてその反発心を表現すればするほど、父と母の私への言動はどんどん酷くなっていったのです。
【2.心に大きな傷を負った中学時代】
中学生になった私に、父と母は強い口調であれこれと要求するようになっていました。
”早く手伝いなさい!”
”口答えすんな!俺の言うことを聞け!”
2人とも、口を開けば私に命令してきます。
”弟には何も言わんのに、何で私ばっかり…”
私の心の中は、父と母に対する不満でいつもいっぱいでした。
でもそれでも、ガマンできるうちは黙ってガマンしていました。
なぜならこの頃には、何をするにも
”父と母の怒りを買わないこと”
が私の行動基準になっていたからです。
だけどあの日は、私に命令口調で言葉をぶつけてくる母にどうしてもガマンができなかった。
”イヤって言いよるやん!何で私がいっつもお母さんの思い通りに動かないけんの!?”
私がこう言うと、
”このっ!!”
そう言って、母が手を上げてきました。
”また叩かれる!”
咄嗟にそう思った私は、その場で母の手を払いのけました。
すると私のその行動を母が父に捻じ曲げて伝えてしまい、その後私は、父にボコボコに叩きのめされたのです。
”親に手を上げるとかお前何様や!”
何度”そんなことやってない”と訴えても、父は止めてくれません。
それでも私は、声を振り絞って泣き叫んで訴えました。
”叩いてない!払いのけた手が当たっただけやん!何でいっつも私の話を聞いてくれんの!?”
すると、我に返った父が大声を出して泣いている私に、バツが悪そうにこう言いました。
”おぉ…そら悪かったのぉ…でもお前も誤解されるようなことすんなよ…”
口ごもる父の横で、それまでの様子を黙って見ていた母。
その母に、そこから私は1か月以上、無視され続けたのです。
”何でそんな酷いことができるん?”
何度もそう思った。
だけど、当時の私は口に出せませんでした。
なぜなら、伝えてもどうせムダだからです。
高校受験の時、父にこの高校に行きたいと伝えた時も
”お前みたいな女がその道で食っていける訳ないやろうが!
バカなことを言うなお前は!現実を見ろ!”
と怒鳴られ、私の気持ちは1ミリも汲んでもらえませんでした。
”私の気持ちはどうせ分かってもらえない”
こんな経験を繰り返すたびに、私の中にはこんな価値観が根付いていったように思えます。
どこにいても落ち着かないし、居場所がないように感じる。
私の心はどんどん暗く小さく、縮こまっていきました。
そして心に大きな闇を抱えたまま、私は中学卒業を迎えます。
【3.笑って過ごせるようになった高校時代】
不安定な気持ちを抱えたまま、高校生になった私。
このタイミングでふと、私の中にある気持ちが芽生えてきました。
それは、自分を変えたい!という気持ちです。
”人目を気にしてビクビクしとる自分を変えるには、今しかない!”
”私、もっと明るく生きていきたい!”
そう決意した私は、これまでのネガティブな自分から抜け出すために、自分から積極的に友達に話しかけるように取り組んでみることにしました。
”おはよー!”
”はるちゃんって呼んでもいい?”
”かおりはどんな音楽が好きなん?”
こんな風に自分から積極的に人に関わっていくなんて人生で初めての経験でした。
”緊張で声が震えてないやろか”
”イヤなこと言われたらどうしよう”
ネガティブな妄想が頭の中に何度も浮かんできます。
”無理しとるのがバレとらんやろうか”
”変な子と思われんやろうか”
行動しようとするたびに、心の中に不安が広がっていました。
周りから見れば平然と装っているように映っていたかもしれません。
でも私の心の中には、いつも不安がありました。
でも、それでも。どんなに不安を感じたとしても。
私はどうしても自分を変えたかったのです。
”頑張って明るい自分に生まれ変わりたい”
当時の私の心を支えていたのは、自分に対するこの強い想いのみでした。
そしてそんな努力をコツコツと積み重ねること数か月。
ついに私は、ムリなく自然に友達に話しかけることができるようになれたのです!
そしてさらには、自分で思ってた以上に友達とのおしゃべりを楽しめる自分に変化することができていたのです!
”勇気がいったけど、頑張ってよかったー。”
”不安な自分はまだおるけど、この調子でこれからは楽しく生きていこ♪”
嬉しかった。
人生で初めて感じる、友だちとラクに笑いあえる楽しさと喜び。
学校帰りに寄り道をしてクレープを一緒に食べたり、試験終わりにはみんなでもんじゃ焼きを食べに行って打ち上げをしたりもした。
彼女たちといる時間は本当に楽しくて、いつも心が満たされていました。
”くだらないことで毎日笑えるって幸せやな。”
家の中では相変わらず怒鳴り声や罵声、訳の分からない八つ当たりが繰り返されていたけど、外にいる間はそこから解放される。
その時間に家でのイヤなことすべてがリセットされるような気もしていました。
”笑うって大事なんやな”
私はこの高校時代で、笑って過ごすことの大切さを学んだのです。
”これからはイヤなことは気にせんで前向きに生きていこう”
心からそう思いました。
心からそう思って決意したはずなのに…そんな私の決意をこなごなに打ち砕く大事件がこのあと勃発するのです。
【4.心がこなごなに打ち砕かれた大事件】
高校を卒業したある日のこと、私は弟の友達からお付き合いしてほしい、と告白をされました。
初めての経験でどう対応すればよいのか全く分からなかったのですが、弟の友達ということもあり私はお断りすることにしました。
するとその日から、弟の私への態度が急変。
私と目も合わせないようになり、話しかけても無視されるようになったのです。
”…何でそんな態度を取られないけんの…”
当初、私は度重なる家族の理不尽な態度に辟易していたこともあり、そんな弟に何も言わずに過ごしていました。
だけど日に日にエスカレートしていくその態度にガマンの限界が達し、ある日の夜、弟に自分の気持ちを強い口調で投げかけました。
”何で私が訳の分からんことで無視されないけんの!?”
すると次の瞬間、目の前に火花が飛び散ったのです。
【写真】
気が付いた時には、私は家の外のフェンスに激突していました。
”何が起きたんやろう…”
そう思って痛む額に手を当てると、額から血が流れてきたのです。
”キャー!!”
私が悲鳴を上げると、家の中から父が飛び出してきました。
”何を騒ぎよるんや!!”
そう言いながら倒れている私を見るやいなや、父は弟を殴り飛ばしました。
”何をお前は女に手をあげよんや!!”
フェンスにもたれかかっている私の横で、父が弟に罵声を浴びせている声が聞こえてきます。
私は動転している自分の気持ちを何とか落ち着かせることに必死でしたが、頭が全く回りません。
”どうすればいいんやろう”
何もすることができず、泣きながら父と弟の言い争いを遠くに眺めていた時、父が私に近づいてきてこう言ってきました。
”お前もこんなしょーもないことでモメるな!”
そう言い放ち、父は家の中に戻っていきました。
残された私の横で、泣きじゃくる弟。
”姉ちゃんごめんね”
小さな声でそう言われたけど、返事をする気にもなれません。
”悪いこと何もしてないのに、何で殴られないけんの…”
何とか部屋に戻って布団に横になり、弟の理不尽な仕打ちに納得ができない私の目からは涙が溢れ出ていました。
”痛い目にあっても誰も助けてくれん”
味方のいないこの状況に、私の心はズタズタに引き裂かれていました。
”痛い…辛い…苦しい…お母さん…”
当時、外出していて家にいなかった母に、私はとにかく早く寄り添ってほしかった。
それまでは何が起きても父や弟の味方をしてきた母。
”今度こそ、母は私の味方をしてくれるはず。私に寄り添ってくれるはず”
そんな淡い期待を抱いて、私は母の帰宅を待ちわびていました。
ところがこのあと、予想外の母の言葉に、私の心は更なる絶望に突き落とされることになるのです。
”あの子は人を殴るような子やないけん、あんたに原因があったんやないかねぇ”
外出先から帰ってきて状況を把握した母のこの言葉に、私の心は凍り付きました。
そして次の瞬間、今までに味わったことのない絶望感が身体の中を駆け巡りました。
”何でそんなひどいこと言えるん!?わたし何も悪いことしてないのに”
声を上げてなきじゃくる私に、母は困った顔をするだけでした。
もうイヤや。身体に傷を負っても誰も私に寄り添ってくれん。
なのに悪いことが起きたら全部私のせいにされる。
私が何をしたって言うん?
例えようのない苦しみが、私の心を覆いつくしました。
18歳のこの日、ついに私の心はガラガラと音を立てて崩れ落ち、こなごなに打ち砕かれたのでした。
【5.落ち着かない結婚生活、そして離婚へ】
あの痛ましい事件のあと、私は20歳で結婚。21歳の時に息子を出産しました。
幸せになるために選んだはずの結婚。
そして環境も大きく変わっているはずなのに、落ち着かない日々はなぜか変わりませんでした。
”誰のおかげで飯が食えよると思っとるんか!”
”お前こんなこともできんのか!!”
結婚した夫も、少しでも気に入らないことがあると父と同じように私に暴言をぶつけてくるのです。
そしてその言動は、息子が産まれてからどんどんひどくなっていきました。
息子への悪影響を防ぎたかった私はそのうち夫に言い返すようになっていったのですが、それに伴って、夫婦間の言い争いが増えていきました。
”この状況を変えるにはどうしたらいいんやろう”
悪化する一方のこの状況を改善するために、私は真剣に悩みました。
何度伝えても暴言を止めない夫。
このままでは息子のためにも良くない。
何とかして私はその状況を変えたかった。
私と同じ思いを息子にだけはさせたくない。
本気でそう思っていました。
だけど夫は、同じ気持ちではなかったのです。
【写真】
”お前らなんか殺してやる”
ある日、逆上した夫に包丁を向けられて脅されました。
背筋が一瞬で凍り付きます。
そして次の瞬間、隣の部屋で寝ていた1歳にも満たない小さな息子を抱えて、私は家を飛びだそうとしました。
”こんな冗談を真に受けるとか、お前バカやないんか?”
逃げようとする私を見て、夫はへらへらと笑っていました。
その時、私はやっと自分の愚かさに気付いたのです。
”いつか分かってくれる。いつか変わってくれるはず”
私がどんなに相手も寄り添っても、どれだけそう願ってもそんな日は来ないのです。
”私が間違っとった。このままやとこの子の命まで危険に晒してしまう”
危機に直面したことで私はやっと、本気で夫と対決してこの小さな命を守ることを決意したのです。
”最悪、刺されるかもしれん。それでもこの子の命は私が守る!”
【写真】
離婚の申し出後、想像通り夫はありとあらゆる暴言をぶつけてきました。
”お前みたいな女、誰も相手にする訳ない”
”お前のわがまで離婚するんやけ、金は1円も渡さん”
父そっくりな暴言を吐く夫。
だけど今の私には、守るべき息子がいます。
だから絶対に、ここで怯む訳にはいかない。
私は夫の暴言と支離滅裂な主張にその都度冷静に対応し、すべての言い分を論破し続けました。
けれど何度も抵抗してくる夫となかなか折り合いがつかず、結局最後は父に間に入ってもらうことで、やっと離婚を成立することができたのです。
”疲れた…でもこれでやっと息子を守っていける”
当時、私は本当に疲れ切っていました。
だけど息子のためにも、休んでいるヒマはありません。
離婚成立後、私は実家に戻らせてもらうよう両親に頭を下げて、実家に戻ることにしました。
そしてしばしの休息のあと、すぐに仕事を探し始めます。
”戻りたくないけど息子のためや。お金が貯まるまでは実家に頼らせてもらおう”
こうして再び、実家での生活が再スタートしたのです。
【6.ついに人としゃべれなくなる】
”あんたの育て方間違えたけ、またイチから育てなおすけね”
実家に戻って開口一番、母にこう言われました。
”くそー、ムカつく”
正直そう思った。
だけど情けないことに、当時の私にはこれしか選択肢がなかったのです。
家を借りようにも、まずとにかくお金がない。
そして小さな息子を抱えて1人で育てていくことへの不安。
自分の中のいろんな未熟さを、認めざるを得なかった。
”小学校にあがるまでにできるだけ貯金して、それから家を出よう”
心の中で静かにそう決めて、息子のため・自分のために私は実家にお世話になる事にしたのです。
”それが終わったら次は洗濯物たたみよ!”
”お前、子供にはこうやって教えんか”
結婚前と変わらないダメ出しと口出しの毎日が、また始まりました。
それどころか、両親の私への要求はさらにエスカレートしていきます。
”●●の資格を取れ。資格取って親にラクをさせようとか考えんのか、お前は!”
”あんたは親が困っとるのに助けようとか思わんの!?”
容赦ない言葉の暴力が、事あるごとに私に投げつけられてきます。
”言い返したら倍になって返ってくるし…”
当時、息子の面倒を見てもらっているという負い目を感じていた私は、以前よりもさらにガマンするようになっていました。
だけどある時、ついにそのガマンが限界に達してしまいます。
”お前は俺の言うことを聞けんのか!!”
”あんたが私の言うことを聞かんけやろ!!”
この日、父と母は2人がかりで私を責め立ててきました。
ここで私は、声を上げたのです。
”わたしずーーっと頑張りよるやん!!何でそれを責め立てられないけんの!?”
”私は出来損ないの失敗作なんやろ!?失敗作の私はいらんのやろ!?ならもういいよ!!!”
それまでの人生で積み重なっていた想いをこの言葉にすべて詰め込んで、私は両親にそう言い放ちました。
そして号泣しながらその場にあった荷物をすべてバッグに詰め込み、そのまま家を出ていきました。
【写真】
”これからどうしよう…疲れたなぁ…”
この時ばかりは、自分の心と身体が悲鳴をあげているのが分かりました。
”私はこの子を幸せに育ててあげることができるんやろうか”
何も知らずに知人の家で遊んでもらっている息子が目に映るたびに、不安が心に広がっていきます。
”落ち着いた環境で育ててあげたいのに…私の人生、うまくいかんことばっかりやな”
小さな息子を連れて外にいる状況への罪悪感。お金の不安。
そして、これから生きていくことへの不安。
ありとあらゆる不安が頭の中を支配していて、心を覆いつくしていきました。
そしてどれだけ考え巡らせても、その答えは出てきませんでした。
★
それから1週間が経った頃、知人の家にお世話になり続けることへの罪悪感に耐えきれなくなった私は、再び実家に戻ることにしたのです。
”とりあえず孫のことは可愛がってくれるけん、息子にとってはあそこが安全やし…”
表向きはそんな理由をつけて実家に戻った私ですが、心の中ではそんな自分が情けなくて仕方がありませんでした。
”結局、今はあそこに頼るしかないのか…”
こんな気持ちを抱いて、実家に帰宅。
この時ばかりは父も母も何も言わず、私と息子を黙って受け入れてくれました。
そして当時の職場での人間関係にも疲れ切っていた私は、そのまま実家で引きこもり生活を送ることになるのです。
【7.暗闇しか見えなかった日々】
もう誰ともまともに話せない。
当時、私はこんな状況に陥っていました。
仕事も辞めて自室にこもるようになった私のこの状態は、どんどん悪化。
食事もまともに摂れなくなり、私の心と身体はどんどん衰弱していきました。
そしてそんな私の状態に、父と母の態度は一変。
初めてみる娘の様子にどうすることもできず、ただただ黙って状況を受け入れていたように見受けられました。
この期間、私は昼夜問わず頭の中で自分を責め続ける声に苦しんでいました。
”こうなったのは私に頑張りが足りないせいや”
”私はダメ人間で失敗作なんや”
”親の期待に応えられない私はダメ人間”
”役に立たない私は存在価値がない”
頭の中に何度も浮かぶ、自分を責め立て続ける言葉の洪水。
何度も頭を叩き割りたくなりました。
”もうダメや。全然気力が湧いてこない。”
夜も眠れない日々が続き、心身ともにますます衰弱していきました。
そしてついには息子のことも考えることができなくなり、布団から起き上がることさえできなくなっていったのです。
将来に何の希望も見えず、目の前には暗闇しか見えなかった。
”このまま死んでいくしかないんやろうか。”
そんなことを考えていた時、小さな息子が寝たきりの私の横にちょこんと座ってきました。
”ママ笑って!にーっ!”
涙が溢れてきました。
小さな身体で全力で、息子が一生懸命に私を励まそうとしてくれている。
なのに私は寝たきりで、その笑顔に応えることができなかったのです。
”ごめんね”
言葉にできない想いをぐっと飲み込んで、私は息子の頭をそっと撫でました。
”こんな小さな子に何もしてあげられない。”
自分が情けなくて情けなくて、涙が止まりませんでした。
だけど、何をどうすればいいのかも分からない。
”ごめんね、こんなママでごめんね”
息子への申し訳ない気持ちを抱えて、私はまた布団の中で泣き続ける日々に戻っていきました。
【8.引きこもり生活からの脱出】
引きこもり生活を初めて1年が経ち、私は相変わらず1日のほとんどを布団の中で泣き暮らしていました。
”この1年、結局死ねんかったなぁ…”
ある日ふと、そう思いました。
そして、あの日の息子の笑顔が頭に浮かんだのです。
満面の笑みで私を見つめてくる小さな愛くるしい笑顔。
”わたし、これからもずーーっとあの子に自分のこんな姿を見せて生きていくんかな”
そう思った瞬間、私の中で何かが変わり始めました。
”こんなに何もできん私に変わらずに接してくれたのは、あの子だけやったな”
まわりがみんな腫れ物に触る態度になっていた中、それまでと変わらず私に笑いかけてくれた小さなわが子。
その笑顔を思い出した途端、私の中にこれまでになかった何かが生まれました。
”私を信じてくれとるあの子に、私はこの姿を見せ続けて生きていくと?それだけは絶対にイヤや!”
”私が親に影響を受けたように、あの子も私に影響を受けるはず。”
”だとしたら、私は立ち上がらんといけん!立ち上がっていい生き方を見せんと、あの子にも悪い影響を与えてしまう!”
直感的にそう感じた私はそこから社会復帰するとともに、自分を変えるための方法を探し始めることにしたのです。
【9.社会復帰と父の死】
引きこもり生活から1年後、私は息子のおかげで社会復帰することができました。
だけど、実家での居心地の悪さや両親との関係性の悩みは改善しないままでした。
家族の揉め事に巻き込まれてしまう私。そして、揉め事を放っておけない私。
イヤだと思う反面、どうしても関わってしまう自分自身にも疲れ切っていたし、職場での人間関係にも相変わらず悩んでいました。
”このままやったら本当に自分がダメになってしまう”
どんなに前向きに取り組んでも全く変わらない状況に、私の中にどんどん焦りの気持ちが溜まっていきました。
”とりあえず早くお金を貯めて、家を借りよう!”
自分の中の心の問題の重大さに気付きつつも、なかなか行動できないまま、私はひたすら貯金するために働き続けるのでした。
実家に戻って4年。
当初の貯金の目標を達成した私は、実家の近くにアパートを借りました。
”やった!!これでやっと自立できる!!”
そう思った矢先、父が亡くなりました。享年54歳。
この時、生まれて初めて父が無言でベッドに横たわっている姿を目にしました。
あれだけ激しく気性の荒かった父が、入院期間中にどんどんやせ細っていくところを目の当たりにした光景とあの衝撃は、今でも忘れられません。
父が倒れてから息を引き取るまでの間、私は父の人生を通して自分の人生を振り返っていました。そしてある日、
”ここで自分を見つめなおさんと、お父さんと同じになる。何も変わらん気がする”
直感的にそう思ったのです。
私はこの父の死をきっかけに、本気で自分の心と人生を立て直すことを決意します。
そしてもうひとつ、父の死は、私に思いがけない変化をもたらしてくれました。
それは、母の変化です。
”やりたいことがあるなら、あんたは今のうちにやっときなさい”
”私が元気なうちは子供の面倒くらい、私が見とってやれるけん”
あれだけ私をがんじがらめにしていた母が、私への理解を示してくれるようになったのです。
母のこの言葉は、当時小さな息子を抱えていた私にとって、大きな助けになりました。
そしてここから私は、自分の心の問題と人生を立て直すための答えを見つけるために、ひたすら探し続けることになります。
【10.答えを求めて探し続ける日々】
母の理解を得ることができた私は、そこから貪欲に学び続けました。
初めはとにかく本を読み漁り、そこに書かれていることは手あたり次第試してみました。
家は心の中を映す鏡だと知れば、家の中を徹底的にキレイに保ち、物事の良い側面に目を向けるようにしよう!と書いていれば、その通りに取り組みました。
”不満が多いのは感謝が足りないからだ”と書いていれば、両親にやってもらったことも書き出してみたし、お墓参りや先祖供養に取り組んだ時もありました。
自分を知るために●●占いや●●診断も、数えきれないくらい試したなぁ…
運気がよくなるオーダーメイドのブレスレットも買ってみたし、風水も取り入れてみた。
だけど、どれも良い気分になれたのは最初だけでした。
”こんなにいろいろやっとるのに、何でうまくいかんのやろ…”
変われない自分に落胆するたびに、こんな気持ちで胸がいっぱいになっていきます。
それでも諦めずに、自分が変われる方法を探し続けていく私。
次第にネット上に掲載されているセミナーや講座が目につくようになってきました。
”12万円かー、高いなぁー…お金かかるなぁ…どうしよう…”
息子の将来を思うと、どうしても躊躇してしまいます。
”参加してみたいけどお金かかるし…でも気になる…”
何日も何日も悩み続ける私に、また母が声をかけてくれました。
”気になるなら、とりあえずやってみたらいいやない!”
”お金は頑張って貯めたあんたにも使う権利があるやろ”
嬉しかった。
人生で初めて、母が私を応援してくれた。
だけど、どうしても申し込むことができない。
なぜなら、自分のためにお金を使うことが怖かったから。
それに、息子の学費が足りなくなる不安もある。
せっかく母が後押ししてくれても、私の中のこういった不安はなかなか消えてくれませんでした。
だけどそのうち、”このまま動かんで本当に後悔せんの?”
こんな言葉が頭が浮かぶようになってきました。
そこからも何日も何日も、グルグルと考え続ける私。
そして、考えに考え抜いて私はやっと答えを出すことができました。
”このままの状態でいいワケない!私は絶対変わるって決めたんや!”
こうして自分の気持ちを再確認した私は、やっと初めてのセミナーの申し込みボタンを押すことができたのです。
【11.なかなか納得のいく方法に出会えない…】
セミナーや講座に参加し続けた結果、少しずつですが私は自分の心の変化を実感していくことができました。
”時間もお金もかかるけど、行動してきてよかったな”
学ぶほどに今まで知らなかった見識が得られるし、何より自分自身の視野が広がることで心の器が安定していってるように感じていました。
”だけど、何かが足りない”
毎回セミナーに参加したあとは、決まってこんなモヤモヤを感じている自分がいました。
”あと少し、あと少しで核心に触れることができそうなのに…”
”心の奥底から変化を実感できる方法ってないんやろうか…”
この数年、時間とお金をめいっぱい費やして、時には母に息子を預けて講座に参加してきた。
その自分の行動に悔いはない。
だけど、いつまで私はこうやって学び続けるんやろうか…
ここにきて、ひらすらに学び続けてきた私の心に不安が生まれてきました。
”息子のために貯めてた貯金もどんどん減っていくし、どうしよう…”
私はお金の不安と、まだ納得のいくほど心の変化を実感できていないと感じている気持ちの間で、ここでもまたグルグルと悩み続けました。
”…お金が減っていくのは怖い。けどやっぱり、悩みを根本的に解決できる方法を知りたい”
自分と向き合い続けた結果、ここでも私はまた、前に進むことを選びました。
”それにここで答えを見つけられんかったら、また過去に引き戻される気がする”
自分のこの感覚を信じて不安を振り払い、再び自分の納得のいく方法を探し続けることにしました。
そしてここでついに、私の求めていた心の奥底から変化を起こしてくれるカウンセリングと出会います。
【12.ついに運命のカウンセリングに出会えた!】
あらゆる心の悩みは、幼少期の主として両親との関わりを通して作られる思い込みに存在します。
HPに書かれていたこの説明を読んで、全身に衝撃が走りました。
私がずっと探し求めていた答えにやっとたどり着けた喜びと共に、これまで心の奥底で抱えていた疑問がこの説明ひとつですべて理解できたからです。
”何で私はこんなネガティブな性格なんやろう?”
”ていうか、性格ってどうやってできるん?”
自分の内側に原因があると感じながらも、何をどう探求していけばよいのか分からなくなっていた私にとって、この心理カウンセリングとの出会いは、真っ暗だった私の視界に一筋の光をもたらしてくれました。
そしてすぐに、私はこのカウンセリングを受けてみることにしたのです。
カウンセリングを受けて自分の心と向き合っていくと、終わったはずの過去の出来事を引きずっている私が出てきました。
お母さんに話を聞いてもらえなかったこと
”あんたみたいな子いらん”と言われたこと。
お父さんに自分の気持ちをバカにされたこと。
”お前は俺の言うとおりに生きろ”と言われたこと。
そこには、当時の傷ついたままでいる私がたくさんいました。
そうか…私はお父さんとお母さんの心無い言動に傷ついていて、怖かったし、悲しかったし、寂しかったんやな。
そんな自分の気持ちに気付いた瞬間、涙が出てきました。
そして、”そうだよね、悲しかったよね”
そう声をかけられると、そこから堰を切ったように涙が溢れ出してきたのです。
父と母に責められて苦しんだ時とは明らかに違う、心の奥底からの涙。
ずっとガマンしてきた過去の私の深い悲しみと苦しみ。
声を上げて泣くほどに、身体の奥底からどんどん感情が溢れ出してきました。
”たいしたことやない”
”もう終わったことやし”
これまで何度も自分にそう言い聞かせて、前向きに生きていこうと頑張ってきた。
だけど私に本当に必要だったのは、今の私が私の本音にちゃんと耳を傾けて受け止めてあげることやったんや。
私はカウンセリングを受けることで、他でもない私自身が私の気持ちをないがしろにし続けてきたことを心から理解することができたのです。
そしてカウンセリングを受けて自分の心と向き合い、自分の気持ちを大切にしていくうちに心の重荷は軽くなっていき、同時に少しずつ私の心は安定していきました。
【13.私はワタシのままでいい】
”弱い自分の心を立て直して、人生をよくしていきたい!”
そう心に決めてその方法を本格的に探し始めてから、10年以上が経過した現在。
いま私は、日々の生活を自分らしく穏やかに過ごすことができています。
”ゴハンが美味しい”
”お風呂が気持ちいい”
”素の自分で笑える喜び”
こんなフツーの目の前の幸せを、毎日じんわりと感じることができるようになりました。
どこにいても、何をしてても人の目が気になって仕方がなかった側面は激減し、何をするにも自分がどうしたいのか?どれが好きなのか?という自分基準で物事を決められるようにもなりました。
中でも1番の変化は”未来に希望を持てるようになった”こと。
引きこもっていた頃の私は未来に希望なんて持てなかったし、このままずーーっと心が死んだまま生きていくのだと思っていました。
だけど、そんな私でも変わることができた。
自分と向き合うことはしんどい時もあるけど、それでも諦めずに向き合い続けてきてよかった。
いま心からそう思います。
親の期待に応えようと頑張らなくても
ムリして人の気持ちを優先しなくても
ワタシはワタシのままでいい
こんな感覚を取り戻せた今の私だからこそ、過去の私のように悩んでいる方のために伝えられることがあるはず。
そんな思いと共に、これまでの経験と学びを活かして、現在、心理セラピストとして活動をしています。